食べることが好きパート2

前も書いたように、食べることが好きです。
ええ。食べることが、好きなんです。
つまり、お腹の状態が空腹だろうが満腹だろうが関係なく、食べていたいのです。そしてそのとおり食べてました。いや、食べ続けていました。
そうするとどうなるでしょう?
当然、摂取カロリーが消費カロリーを上回り、余ったカロリーは脂肪へ。そうです、おでぶちんになります。
私は凄いおでぶと言うわけではないですが、ムチムチは通り越した人間です。最近の磯山さやかの体型に近い気がします。多分生で見ると、磯山さんのが断然スタイル良いと思うけど、、。

お腹いっぱいなのにポテチやらじゃがりこ、ケーキ、クッキー、コンビニスイーツを買い込んで晩御飯後に食べたりしてたんです。ストレスなのかなぁ、と思ってたけど、ストレスあろうがなかろうが関係なく食べるんですよね。そのあと吐くわけではないのですが、まぁ自己嫌悪に陥ります。そして自己嫌悪から逃避するために、また食べる、とかを繰り返してました。摂食障害とまでは行かないけど、何らかの問題を抱えてますよね。

ところが最近、必要な分だけ、って考えるようになったら、アホみたいにばかばか食べることが無くなったんです。抽象的ですが、口の声と腹の声が違うことに気づいたのです。口は、甘くなりたい、塩辛くなりたい、という声をどんどん発信して、私はその声にしたがって食べ続けていました。
でも、腹の声に耳を傾けると、お腹いっぱいだよー気持ち悪いよー、と言っているんです。最近、その腹の声が聞こえるようになったんです。
この前の旅行で、命がけの体験をし、今の身体と心があれば充分、何事も必要な分だけで生きていこうと思ったことをきっかけに、腹の声が聞こえるようになりました。

そしたら、お腹いっぱいなのに食べ続ける、とか、何でも良いからお腹に詰め込む、ということがなくなりました。甘いものが食べたいなーと思っても、本当に身体が欲してるか尋ねると、答えはノーの時が殆どです。最近、少し顔やお腹がスッキリして、肌もキレイになってきました。

さて、食べ続けることが無くなった私ですが、食べることが好き、についてはどうなんでしょう。実はそんなに好きじゃないのかもしれない、と思い始めました。食事それ自体に興味は無いし。
うーん、ドコドコのあれが食べたいとか、殆ど無いですからね。

食べることが好き問題、時期をおいてまた書いてみよ!

自分の分を知る

幸せに生きるには、自分の分を知る、ってことが大切だと銀色夏生さんの本で読んだことがある。
自分の分を知る、わきまえるということ。
読んだときは、なんだか悲しいって思ったんです。分を知る、わきまえる、ということは、自分はこんなもんだ、と諦めるようなそんなニュアンスを感じたから。

今、改めてその事について考えると、諦めるとか、そういうこととはまた違う気がしてきた。
自分の 分を知る、ということは、出来事と自分に距離を与えることなのかな。出来事に対して、感情を大きく揺さぶられないようにする、というのかな。
悪い出来事って、自責感とか、怒りとか、悲しみとか、負の感情が湯水のごとくあふれでる。だけど、どこまでが、自分でコントロールできたのか、って考えると、悪い出来事は、全部が自分のせいじゃない。人に怒られたって、同じことでも怒らない人はいるし、転んだのも、道路に穴があったからかもしれない。全部が全部、自分のせいじゃないんですよね。
だからそこに全感情を持ってかれても、無駄なんですよね。感情の無駄遣い。
自分の分を知っていれば、自分が影響させた分だけ怒れるし、悲しめる。感情に振り回されない。銀色さんの言いたかったことはそういうことなのかな。

でも、大金落としたらめちゃめちゃ凹むよな。ひゃくぱー自分のせいだって思うもんなぁ、なんてね。笑

必要な分だけ

今日まで仕事を休んで旅行へ。帰りの車中です。
携帯の電波通じないド田舎で、滑落者が後を絶たない渓谷トレッキングしてきました。
命の危機を感じた回数、2回。
引き返したいと思った回数、5回。
辿り着いた場所での感動、プライスレス。

アドレナリン大放出してかなり頑張りました。
気を抜いたら、滑落。
まだ死にたくない、って強く思いました。
普段、死にたいとか、思うけど、やっぱり死にたくないわ。

大自然とそこに暮らす人達と関わって、感じたこと。
必要なぶんだけ、感じれば良い、ってこと。
もうね、一歩踏み間違えたら、滑落。
足滑らせたら、真っ逆さま。
めちゃめちゃ怖い。足が踏み出せない。
でも踏み出さないと、進めないんです。鎖だって、片手で掴めば歩けるのに、怖くて両手で掴むと、足が出せなくなるんです。

恐怖心は大事、だけど強すぎる恐怖心は、身体を硬直させてしまう。落ちたらどうしよう、落ちたら大ケガするんじゃないか、落ちたら死ぬんじゃないか、悪い妄想のエンドレス。そして一歩も踏み出せなくなる。必要な分以上に感じてしまってるんです。感じるを通り越して、考える、になってるのかな。

喜びも楽しさも恐怖も悲しさも、必要なだけで良い。そうすると、満足できる。今って色んな刺激があって、よくわからない不安を駆り立てられて、もっともっとを求めてしまう。
もっともっとを果たすと、さらに上を求める。エンドレス。

死にたくない、って思ったとき、このからだと心さえあればいい、って思った。
うまくまとまらないけど、そんな感じ。
身体と心を大切にしよう、って言う気持ちが心に広がる旅行でした。

行動派

行ってみたいやってみたい、と思ったらとりあえずやってしまう派です。社会人になってからかな、そうなったのは。多分自由なお金が増えたから。
それまでは人並み未満の財政状態だったので、行ってみたいやってみたいの感情すら、そんなになかったです。お金って大事ですね、お金がなくてものびのびできることが一番かもしれないけれど、それはなかなか難しい。

あ、それで、私は行動派になったわけです。
1人で外国に行ってみたり、勢いに任せて引っ越ししてみたり、大学生ばっかりのボランティアに参加してみたり。興味の湧いたこと、面白そうなことは、やってみる人間になりした。
でもいつもそうってわけじゃなくて、うんうん悩んで何も出来ない時もあるし、やりかけてやめるって時もあります。
そのやるかやらないかのハードルって、何だろうって考えると、多分、その時の停滞具合なんですよね。物凄く停滞していると、最初はハードルがめちゃめちゃ高かったことが、ひとっとび出来ちゃうんです。普通は停滞してるほど動けなくなる気がするんですが、私の場合は多分逆で。
おそらく、そこに留まるのが辛すぎて、何とか打開しようとしちゃうんですね~。そういう自分を客観的に考えると、自分って実はメンタルめちゃくちゃ強いのかな、超ポジティブなのかな、って思います。いや、躁鬱なのかしら?笑

心のなかで、自分を助けるのは自分の行動だって思っていて。空から楽しいことは降ってこないし、温泉みたく勝手に素敵な人が地下から涌き出てくるわけではないよなーと。
自分でつかみに行きたいって思ってしまう、狩猟民族です。

それでも落ち込むときは落ち込むし、泣くし、ひとりぼっちだなぁって凹むし、しんどい気持ちもたくさん抱えてます。寝たら忘れるとかいうタイプでもないし。
色んな自分を抱えてるけど、ハッピーに暮らしていきたいなぁ。行動派の自分、そんなに嫌いじゃないのです。

お母さんに謝ろう

1年前くらいに、そんな話が浮上しました。
もうかれこれ6年近く、実家に帰省せず、連絡も取らず。絶縁状態で5年くらい経過した頃ですかね、ケータイに実家の番号からの着信が。
絶縁して1年くらいは、着信があったんですよ。まぁ一切出なかったので、その後向こうも諦めたのか、連絡もなくなったんです。そんなもんで、数年ぶりの着信。出ませんでしたが、遂に死んだか倒れたか?と思いましたよね。
でも死んだか倒れたかしたら、別ルートから連絡が来るはずなので、多分違うなと。
そこで、姉に連絡してみたんです。姉も同じように両親と絶縁中なので。そしたら姉はやはり何事か、と思い、応答したようなんです。
そしたら父親からの電話で、久々に私含め四人で会わないかと。姉は動揺していたため、またかける、と伝え、私に連絡してきて、こういうわけでどうする?という話になったんです。

両親も高齢、これから誰が面倒みるのか、健康状態はどうなのか、どういう暮らしをしているのか、全くわからないわけです。我々も良い大人。今後を考えたら会った方が良いのかな、1人で会うのは無理だけれど、二人ならなんとかなるかな、という意見で合致。二人で予定を合わせ、この日にしようと決め、姉が連絡することとなりました。

そして姉が父親へ連絡。
結局、会うことはなくなりした。
その理由は、父親の設定した会う目的が、我々と父親が母親に謝る、という体だったからです。

謝る?なぜ??

私は直接話したわけではないからわからないですが、父親の考えでは、母親はずっと苦労してきた、と。一家を支えるために生活を切り詰め、自分のやりたいことを我慢して、我々を大学まで行かせた、と。だからもう晩年となり、その苦労を労うために、謝りましょう、と。

はい????

謝る、というのは、悪いことをした人がするものですよね。
我々は、小さい頃から母親に罵倒され怒鳴られ、父親及び父親の実家の悪口を延々と聞かされ、毎日毎日、母親の怒鳴る声が響き渡る家で生活してきました。自己肯定感、安心できる場所、自分を認めてくれる存在、無償の愛をくれる人、そんなものを一切与えられないままに育つこととなったわけです。
そんな環境を作り出した人に謝ろう、と。

もうね、諦めました。父親もどうしようもない人間だったわけです。我々がどんなに怒鳴られたって、罵倒されたって、一切守ってくれなかったのは、そういうわけです。

彼らには死ぬまで会いたくないし、一切関わりたくない。どこまでも残念な親達でした。
親に望むことは、我々に迷惑をかけずに、命を全うしてください、それだけですね。
ちゃんちゃん。

婚活してます

かれこれ数年間、婚活してます。
婚活、というか、出会いを求めるアクションを定期的に起こしていて、今私が世間的には結婚適齢期だから、婚活してる、ってことになるのかな。

婚活パーティーは30回近く行き、合コンも10回近く、婚活サイトも登録して、数年間。
二人っきりで会った男性は、記憶のあるだけで12人、覚えてないだけでもう何人かいるはず。
うち、数回会った人が4人、付き合った人が0人。要は収穫0なんですよ。

婚活パーティーでは一回に8人くらいの男性と話すので、出会った頭数は300人は超えてるはずです。それでも収穫0。

泣けます。

何より、あぁあの人、好きだなぁってなったのは、1人しかいませんでした。

なんかね、最近は、無し!って思わなければ、アリにしようとしていたんです。最低点を超えてさえいれば、アリにしようと。だけど、私はそんなに器用ではなかった。無し!って思わなくても、本能的にアリにならないと、一緒にいても楽しくないんです。ひたすら会話を続けることに精一杯で、疲労困憊。連絡だって積極的に取ろうとしない。そうすると、相手にもそれが伝わって、結局はうまくいかない。
相手と自分との温度差が大きすぎないことが大事だなぁって思いました。その人のこと、アリかどうかって、大体は最初に会ったときで決まってる気がします。やっぱりね、はじめまして、で会った瞬間に何らかのジャッジを下してるんです。本能的に。そこでダメだと、頑張ってても途中でしんどくなる。

私は感覚的に生きているから、同性でも、あこの人とは仲よくなるな、とか、この人はなんか無理だな、って割と早い段階で感じます。観察派じゃ無いんです。だから異性でもそれは変わらない。なのに、婚活だと、結果が欲しいゆえに、そこに目を塞いで頑張っちゃうんですよね。でもそれはもうやめます。
本能を大事にしよう。

最近出会った方は、本能的にアリでした。
その方のこともっと知りたいなぁ、もっと一緒にいたいなぁって思います。今度こそ、うまくいきますように。