3月31日

年度の区切りですねぇ。
明日からは平成30年度。
私も職場が変わるのです。

昨日は別れの1日で、泣いてしまった。
会えなくなることは寂しいよね。
寂しさと、後は、色々あったけどよく乗り越えたなぁっていう自分への頑張ったね、の気持ちで。

秋葉原通り魔の犯人弟は自殺した。
家族も血も変えられないのです。むくむくむくと沸いてくる自分の、自分の出自の悲しさやるせなさ。心は自由で、身体も自由で、解放されているはずなのに、いつもそこに収束してゆく。

愛されて認められて当然の存在なんだって、いつも言い聞かせてる。それでも寂しいときはある。それを感じる自分もそれで良し。

明日は今日より楽しくなる。そう信じて生きる、よ。

インフルエンザになりました

A型です。
今は熱下がって、日曜日まで自宅待機なのです。
病院に行ったときは、熱が上がりきってなくて、薬貰って帰ったあとに熱が上がり始めたのはキツかった。解熱剤無いんだもん。9度5分って、子ども以来じゃないの?全身の痛みにどうにかなるかと思ったよ。
ひとり暮らしのインフルエンザってホント辛いわ。インフルエンザだけじゃなく、病気はね、いや病気じゃなくても健康でも?笑

そんなこんなで無事熱下がって健康体なんですが、何すりゃ良いんだろ。やること無さすぎて暇。

ここ一ヶ月

なんとなーく、停滞していたこのひとつき。
気持ちがモヤーンとすることが多かった気がする。
自分ではどうにもならない他人の気持ちについて考えることが多かったからかな。

その時その時は楽しくても、根底に安心がなかった。不安がる自分と対話して、なだめ慰め、たまに知らんぷりしてみたり。
そうこうしているうちに一ヶ月はあっという間に過ぎていって、もうすぐ春だね。

何かを考えないようにするために、忙しくしている気がする。リラックス、リラーックス。
大丈夫だよ、私。どんなんだって大丈夫!

最近のこと

もしかしたら、見下してたのかもしれない、友達の結婚発表。
頭が混乱して、色んな気持ちが次々に出てくる。
処理しきれなくて、とりあえず、アフターファイブは運動しまくっている。とにかく予定を詰め込んでる。

嫉妬の気持ち、なのかな。
でも昔より、自己否定が減った。自分はこのままで良くて自分は素敵である、ってことと結婚してるしてないは関係ない。結婚してようがしてまいが、私はそのままで十分なのです。

新しい出会いは、時に楽しくもあり、そうでもなかったりもする。
色んな人との出会いが増えて、久々にモヤーンとする女の子と出会った。いわゆるパリピっぽい子。
つまらなかったから途中で離脱したけど、そういうことが出来るようになったのも成長だな。
私は私が心地よいと感じる人達と居ればいい。

毎日があっという間に過ぎ去っていく。
焦る気持ちが増えてきてるけれど、リミットを勝手に作ってるからだと思う。
30までに結婚するとか、毎月何万円貯金するとか、何キロまで痩せるとか。
そういうことに思いを馳せるんじゃなくて、朝起きて、好きな服を着て、好きな仕事しに行って、好きなご飯食べて、好きな運動をする。そこに思いを馳せれば、今がとても幸せだって感じられると思った。

自分を大事にする気持ち

自己肯定感を高めるためのアクションをしていると、亀の速度だけど、ようやく自分を大切にする感覚がわかってきた。自分はそのままで認められる存在で、大切にされるべき存在だ、ということが少しずつ心に染み込んできた。
何となく、自分を俯瞰できる時が増えた気がする。

それでね、そうしていたら、昨日くらいからかなぁ、他人を大切にする感覚というのが思い浮かんできたのです。
自分が大事な存在と私自身がそう思うならば、他人だってその人自身が 自分は大事な存在だ って考えているんだよね。そしたら、私が他人から大切にされるのと同様に、私も他人を大切にする必要があるよね、って気づいた。尊重する、ってことかな。
電車で吊革に捕まって帰宅してるときこんなことを考えていた。私と私の右隣の人は同じくらい大切。私と私の左隣の人は同じくらい大切。と言うことは、右隣の人と左隣の人を、同じだけ尊重すら必要がある。見た目、性別、性格、職業、年齢など、あらゆる要素関係なく。

他人を大切にしよう って小学校の時から聞いてきたけど、イマイチその感覚がわからなかった。ようやく、わかってきたかもなぁ。
自分を大切にするってのは、傍若無人な振る舞いをして、自分だけ良い思いをすることじゃ無いんだね。今の私はそこまでわかってきて、それで、そこから、自分を大切にしつつ他人を大切にする、どうやったらそれが実現できるのかを体得してくことかな。

あぁ2018年は、濃いなぁ。密度がある。

自己表現

最近出会った、今の私のバイブルとなる本によると、自分の欲求を抑えていると退屈になるらしい。退屈から逃れるためには、他人の作ったエンタメを消費するんではなく、自分の感情を発散できることをしなさいと。つまり自己表現をしろ、と。

本当にその通りだなぁと思って、エンタメを消費することもちろんエンタメじゃなくて、古典的な芸術に触れたり、一流のものや自分が好きなものを観賞することは私達の感情を豊かにすると思う。
人によってはそれによってすっきりしたり、悩みが無くなったり、嬉しくなったりするでしょう。
ただ私は、いつも何をしても、その時は楽しくても何だかもやもやが抜けなくて。その理由が、このバイブルに書いてあることなんではないかと思った。私は、何らかの欲求や感情を、消費する何かを通して発散させているつもりだった。でも実際はただのつもりで、自分で表現しない限り、私の身体に感情の本体は残りっぱなしだった。私は自分で自分を表現していかなきゃ、ってことにようやく気づいた。

それで次に気づいたことは、自己表現、って例えばステージにたつことや絵を描いたりすることだけじゃないってことに。特に私が思ったのは、スポーツをすることは自己表現なんじゃないかな、ということ。どんなスポーツでも、使うのは感情と身体。感情を身体の動きに反映させてるということは、スポーツも自己表現の一種だろうと。何なら歩くことや階段を登ること、それさえも自己表現だと思った。それに、勉強も自己表現だと思う。受験勉強というよりは興味に沿った勉強が。知りたい、という欲望をざっくり体系化させたものが勉強だもんね。

だから私は最近2つのスポーツを始め、中学校歴史のワークを始め、塗り絵を始め、仏像なぞりがきを始め、折り紙を始め、お菓子作りを始め、日記を書き始めた。あ、いくつかは本を読む前から始めてたな。
強制されるものや、社会的に良いと思われるものではなくて、自分がフッと興味を持ったものをとりあえず始めてみる。
そこから何かヒットするものを見つけてみる。

私はなにがやりたいんだろう

この事を考えていると、ケータイでどうでも良いまとめサイトを見たり、ツイッターやブログを読む時間が減った。
良い変化だと思っている。

今日も私は、自分が何をやりたいのか考えながら眠る。人生はあっという間かもしれないな。